授業中板書を写してる間に、いつの間にか消されている問題

 今日はノートの話をしよう

 私は職業柄生徒さんたちのノートを見ることが多いわけで、今日はそのことについてちょっと書いてみたいと思います。まぁ、率直に申し上げて、ノートが綺麗か汚いかということと成績の良し悪しに、相関関係はほぼないのではないかと私は思っています。しかし、ノートを取るのが致命的に遅いこと、問題を解くのが極端に遅いことは成績の良し悪しに何らかの影響があるのではないかと思っています。そもそもノートを取るほど授業を聞いていないというのは外します。授業を聞いてない人々は、まず授業を聞こう!もう、君ら学校の授業舐めすぎ。時間がもったいないじゃないか、拘束時間長いんだから。授業を聞いてない人は聞くだけで、成績は伸びる可能性があります。本日は、ノートのお話です。

 で、女子生徒に多いことなんですけど、綺麗にノートを取りすぎて、内容が全然頭に入っていないというケース。ノートを書くのに時間がかかりすぎると板書が消されるスピードに追いつけないということも考えられます。ノートは取ること自体にはあまり意味がなくて、それをいかに覚えるかに意味があるのです。

 以前、とても国語の成績が良い高校生が自分はなるべく授業に集中して、先生の目を見ながら聞いているのだと言っていました。その間、ノートを縦に開いて上のページには先生が言ったことを聞きながら殴り書きし、時間に余裕があるときに、下のページにまとめるんです、と。

 高速でノートを取って、板書じゃなく、先生が言ったことを片っ端からメモしていってみてはどうでしょう。つまらないダジャレもメモるのです。まず、綺麗にノートを取るのではなく、全部メモ。そうしているうちに、いかに自分が聞き逃していたのかを意識するようになるのではないかと思います。慣れてくると、きっとノートに取るべきこととそうでないことがわかってくると思います。人が喋るスピードについていけるかどうかの心配はいらないと思います。わりと先生は同じ内容を何度も繰り返しているでしょうし、どうでもいいダジャレとか書いていくと、先生の意外な一面に気づくことがあるかと思います。高速で書くと頭もフル回転しないと追いつけませんし、手を動かし続けると寝ている暇なんてありませんから。とにかく、高速で書き続けるんです。

 問題を解くときもそうなんですけど、とにかく遅いのはよろしくない。英文法なんて、知識問題なんだから、知らない単語、知らない文法をひねり出して出てくるものではありません。まず、文法問題集を解く前に、覚える作業が必要です。問題は知らない知識を抽出するために速く解いて知らなかった問題は確認して間違ったところを覚えるようにしましょう。解いた→間違った→オワタ→放置というのでは身につかんのです。いやいやいや、じっくり考えれば思い出せたのに…と、思ったそこのアナタ、甘い。甘いよ。甘すぎるよ!だって、長文読むんだぜ。結局、流れるように理解していかないと、3分かかって1文読むペースじゃ、長文なんか解き終わらないんだ。もう、いっそスマホ禁止とか、やめちゃえばいいのに。板書をスマホで撮って家で復習とかで。聞き逃すぐらいなら。って、それノートの話じゃなかったですね。でも、授業は大事に。基礎は大事。

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やればできる子はやってもできない子よりある意味たちが悪いという話

やればできる子というのは、つまりやってないからできない子のことではないのでしょうか

ものは言いようですな。

「やればできる」というと、まるでできる子みたいな錯覚をしてしまう都合のいい表現だなぁと思います。やってないからできないのに、やればできるんだから今はやらないでおこうと思ってしまうものなんですよね。だから、やればできる子は、これからもやらない可能性が高いんだと思います。

 やればできる子は、自分がたとえビリになっても危機感はないのではないかと。彼らはやればできるから。たいてい、やらないままできないままになるのです。

 やればできる子は、やってもできない子よりもある意味厄介なのですよ。

 やってもできない子は、正味やっていないことが多いので、本気でやらせるとどんどん伸びていくことがあります。そして、やってもできない人は、やり方を間違っている可能性もあります。たとえば、やるべき順番を間違っているとか。ある程度易しい長文から始めるべきなのに、知らない単語がいっぱい並んでいる長文をひたすら辞書を引いて読んだり。辞書を引くのは大事だけど、辞書を引く時間はもったいないです。1行に未知の単語が3つも4つもあるのに辞書を引いて読んでいては、最後までたどり着けません。先に単語をある程度覚えてから、あるいはレベルを落とした方がいいです。

 また、学校の宿題だからとレベルの合わないものを徹夜でやるぐらいなら、さっさと切り上げて答え合わせをして、寝てしまった方が翌日のためになると思いますよ。学校はすべての生徒のレベルに合ったものを宿題にすることはできませんから。

 それから、とにかく遅いのです。暗記なのに、すぐに思い出せないのを時間をかけてだらだら考えるぐらいなら答えを見て早く覚えようね。そもそも、インプットしてないのにアウトプットしようとするのは、まったく時間の無駄。まず覚えることからやったらいいと思います。

 でも、やたら時間をかけると、やっている気にはなりますよね。しなくていいことに時間を取られている場合もありますので、それは本当に必要なことなのか考えたほうがいいと思います。ノートを綺麗にとるのに一所懸命になりすぎて、授業が全然頭に入らないとか。すぐに板書が消されて「あー、あとでノート見せて」って隣の人に言うという、それは過去の私ですね。なんであんな無駄なことやってたんだろうって。

 やってもできない子は、やり方を変えればできるようになる可能性が高いのです。少なくとも、「できませんから」っていう現状を把握できていることは素晴らしい。現状から目を背けると、目標が達成できなくなるのですが、人間、そんなに強くないですから、テストの結果が悪いと闇に葬り去ってしまいたいものです。気持ちはわかります。しかし、そこからどうやって立て直すか分析しないといけません。塾の先生には、さっさと悪い答案を見せて次の一手を考える方がいいと思います。

 とにかく、問題を解いて、丸バツをつけただけとか、質問しただけとか、書いただけとか。とりあえず、席についただけとかの人々は、理解して覚えるまでやったら結構できるようになると思います。

 でも、一番目につくのは、やり方の前に学習時間がとても少ない場合が多いです。勉強をする習慣がないのです。

 以前、まったく家で勉強しない生徒さんがいまして、本当に宿題を出しても、まあしてこないわけです。そこで、1週間「家に帰ったら5分間勉強はしなくていいから机の前で椅子に座ってテキストを広げるだけ」という宿題を出してみました。問題は解いてもいいし、解かなくてもいい。でも、5分間は座っておかないといけない、と。すると、やはり本人も退屈だったのか、5分間座るだけの宿題だったのに、期待以上の宿題をしてきていました。

 なんと、その後3ヶ月ぐらいで定期テストでクラス順位2位になっていました。それまで、まったく見せてくれなかったテストの結果を頼みもしないのにすぐに持ってきてくれましたし。やっぱり、そういうことがあると嬉しくて勉強するようになるんですよね。

 わかりやすいでしょう。

 みんな誤解してるようですけど、できる人はやってるからできるというのもありますけど、ほとんどの場合できるからやっているんだと思います。

 やってもできない子で、特定の分野に障害がある方もまれにいらっしゃるので、それは専門家に相談された方がいいと思います。

 で、やればできる子は、そろそろやってもらっていいっすか。私は、やればできる子の頑張りにすごく期待してるんだけど。 

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パタパタする表紙との飽くなき戦い

カバーと表紙と私

 なんだか、「部屋とYシャツと私」みたいで恐縮。すでに、小見出しをつけるのが面倒くさくなってきました。さて、今日の話題。

 本の表紙はパタパタ捲れて鬱陶しいし、そのうちちょっと湿気を帯びてさらに反り返ってきたりして、おまけに「ロングセラー!」だの「◯◯で紹介された」だのどうでもいい帯までついていたりします(私は帯はすぐに外す派ですが)。だからと言って表紙を完全に外すとザラザラした、白っぽくて安っぽい1色刷の、地味な表紙になってしまうし、どうしていいものかと迷うわけですが、これが私にとって長年の悩みの種なのでありました。

 昔、よく使用していたのはどこにでも売っている透明のペラペラのブックカバーですね。パタパタは軽減されるものの、今度はブカブカという新たなる問題が発生するわけです。このブカブカをなくすために、次に考案したのが、カバーを完全にのりとテープで貼り付けて固定するというパターン。これでブカブカは完全に解消されました。

 しかし、なんとなく「ブサイク」なんですよ。「見た目が100%」などと言われる世の中で、果たしてこの「ブサイク」は許されるであろうか、いや許されない(反語)。と、そこで次に登場したのが、図書館でよく使われている表紙に貼るフィルムです(←イマココ)。

 今、よく使う本で、なおかつ売る予定のないものは、フィルムを貼って固定して心の安寧を保っているところです。やっとここにたどり着きました。とても快適です。しかし、このフィルムの欠点は、貼るのにちょっと時間がかかるということ、慣れないと気泡が入ってしまうことなどです。わりとお金もかかります。

 でも、表紙がパタパタするのだけはねぇ…と思いながら、今日もパタパタする表紙にフィルムを切り貼りしています。出版社さんも、カバーの外のカバーじゃなくて、外のカバーぐらいつるつるして分厚いカバーでペーパーバック風に作ってくれたらよいのに。

 みなさんは、どのようになさっているのかしら。

 余談ではありますが、昔、書店で働いていたある日「(書店の汚れよけ)カバーをお掛けいたしましょうか?」と(いつもの決まり文句ですけども)お客様にお尋ねしたところ、ある上品な高齢のご婦人が「カバーをかけるとどううなりますか?」と仰ったので、若かった私は「カバーが掛かった状態になります」と、ありのままを告げてしまい、周りから「当たり前だろう!」とその女性がお帰りになったあと、散々つっこまれてしまいましたというお話。

お後はよろしいようで。

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懲役太郎とOEDの話

オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー編纂秘話に無理矢理こじつける話題のバーチャル・ユーチューバーの話題

『博士と狂人』サイモン・ウィンチェスター/著 を読んで

 本日は、「死体を山に埋める誤り」などでバズっている懲役系(?)Vtuber懲役太郎氏と、世界最大の英語辞典『オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー(OED)』編纂にまつわる書籍『博士と狂人』について語っていこうと思います。

 懲役太郎氏は、現在登録者数5万6千人以上を誇るバーチャル・ユーチューバーで今なお服役中。刑務所内から配信という、ちょっと変わった(いや、随分変わった)ユーチューバーです。そのことと、OEDの何が関係あるの?と思われる方もいらっしゃると思いますが、英語史に詳しい方ならピンとくる話かも知れません。今日は、その話。

 この懲役太郎という男性。私は、刑務所内から配信という「設定」なのかと思っていましたが、どうやら本当に服役中のようです。バーチャルなので、自分に似せた囚人服のアニメーションが獄中から発信されているわけですが、そのアニメーションを書いている漫画家「俺太郎先生」と「刑務官」のことを「先生」と呼び、他の受刑者のことを「懲役」と呼び、話題のニュース、事件や事故、刑務所内の話などを話すというスタイルです。

 前置きが長くなりましたが、なぜOEDなのか。そして、「狂人」と「OED」がどう関わっているのかについて説明していこうと思います。

 「博士と狂人」とは、イギリス人の編集主幹マレー博士とアメリカ人陸軍大尉で外科医のマイナー博士のことです。マレーは貧しい家庭に生まれ、学校へは14歳までしか行っていないのですが優秀であったため17歳で地元の中学校に雇われ、20歳で校長になります。教員では食べていけないことから、ロンドンで銀行員になり、独学で言語の知識を身につけ言語協会の評議員になり、ケンブリッジ大学で教えることになります。そうしてOEDの編纂主幹になっていきます。

 一方、マイナー氏はアメリカ人でボストンの名家の出身。「連邦軍」に軍医として入隊し、南北戦争の極限状態で狂人となって退役。静養していたロンドンで、妄想から彼は人を殺してしまいます。結局彼は精神病院に送られたのですが、病院も彼を大切にし、彼は読書生活を送ります。そこで偶然見つけた辞書編纂ボランティア募集に応募したのがきっかけで、この壮大なる世界最大の辞書編纂を獄中といいますか、精神病院から文通という形で支えていくというストーリーです。

 懲役太郎氏は、辞書の編纂はしていませんし、今のところその予定もなさそうですが、なんとなく「刑務所から配信」という不思議な設定と「精神病院」から辞書編纂の手助けという狂った境遇が少し重なってしまいました。

 ミステリーのような展開と、辞書編纂の過程をたどるという壮大なるロマンと、なぜか重なるポケベル世代の累犯ユーチューバー。隔絶された社会から、何かを発信し続けることの圧倒的なものすごさを感じずにはいられません。

 「長く引っ張った割には、共通項まるでないやん」と言われそうですが。似てませんかね。

 

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音読をした方がいいですか?

「音読」「シャドウイング」どっち?

 「音読をした方がいいですか?」「シャドウイングをした方がいいですか?」という質問を受けることがあります。

 その前に、「正しい発音を知っていますか?」「CDを聴いて確認していますか?」と尋ねてみます。大抵の場合、「単語を知らない」「発音がわからない」「CDを聞くのは面倒臭い」「そもそも発音記号が読めない」という答えが返ってきます。結局、意味がわからないのに発音だけ真似して繰り返すのは、何のための音読なのかわかりません。「なんとなく発音できるようになった」というところで終わってしまうかも知れません。

 聴いて繰り返して、フィーリングで覚えるという学習法は、時間が限られている生徒さんには時間がかかり過ぎて非効率で、お勧めできない学習法だと思います。

 まず、単語を覚える必要があります。しかし、矛盾するようですがある程度文法を知らないと、単語が頭に入ってこないので、まずは単語を覚えながら一通り中学文法がぱっと頭に浮かぶぐらいまで繰り返し学習します。

 これぐらいの基礎があれば、音読の効果が出てくるのではないでしょうか。使用教材は、内容のわかる文章がいいと思います。対訳になっていて、和訳と照らし合わせてみればすぐに理解できるものなどもいいと思いますし、英検の問題集や英検対策用の教材などもとても役に立ちます。CDも付いていますから、音が確認できます。

 では、「音読」と「シャドウイング」ではどちらがいいか。これは、意見が分かれるところですが、私は、「音読」からの方がいいのではないかと思います。「シャドウイング」は難しいのです。「シャドウイング」を、しかもスクリプトを見ないでやった方がいいという方もいらっしゃいますが、これができる人は、かなり限られます。まずNHKのニュースなり(「ぶっ壊す!」という方は、他局のニュースでもOK)で、日本語を聴いて日本語でシャドウイングを試してみてほしいと思います。案外難しいと感じるのではないでしょうか。それを英語でやるのは、もっと難しいですよね。

 まずは、スクリプトを見ながら、意味のわかるものをCDを聴きながらオーバーラッピングをしていく。そして見なくてもできるようになればシャドウイングに移るという方法がよいのではないかと思います。

 音読も大切ですが、最初は黙読からで構いません。毎日短いものを1つ読む習慣をつけることから始めてみてはいかがでしょう。単語を覚えるところからできていない人があまりにも多すぎる気がします。子供の頃に国語の教科書を音読していた頃、「読むのに必死すぎて内容がまったく入って来なかった」という経験をされた方もいらっしゃるのではないでしょうか。まずは、黙読で精読して内容を理解することなしに、音読や速読みたいな「やってる気分になるだけ」の学習はお勧めしません。

 今は、CD付きのレベル別問題集が数種類でています。それらの中から1つのシリーズを段階的にやっていくのもいいですし、同レベルの違うシリーズのテキストを使っていくつかやっていくのもいいと思います。読んで解いて答え合せをして、内容を理解してからCDに合わせて音読をする。

 まずは、そこにたどり着くまでに単語や文法を学習して、リーディングを行うのが近道です。入試に必要な読解力をつけるためには、論理力も必要になります。国語力をつけると、あるいは国語力が高い人は長文を読むのに有利です。

 要約すると、はじめに基礎固め。次に、「音読」の順でいいのではないでしょうかね。

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令和に昭和なロック歌謡を思う

昭和歌謡という突き抜けた言語の世界

 本日のトピックは昭和歌謡です。なぜ昭和歌謡なのかといいますと、英語長文なんかを読んでいるときに例えばwidowと出てくるじゃないですか。そうしたら、私の頭の中に♪ロックンロールウィドウアハハ~という昭和の歌がよぎるんですよ。でも、うーん、待って待って。ロックンロールな未亡人がアハハですって。ロックンロール・ウィドウって何?と歌詞をググってみました。

 驚きました。

 要約すると、カッコばっかりつけているロックンローラーの夫に愛想を尽かした妻が「私あなたのママじゃない」「もしも誰かに聞かれたら夫はとうに亡くなりました。いい人でした」と勝手に抹殺という、とても刺激的な歌詞。

 確かにそれはウィドウでアハハかな、と。参りました。昭和歌謡の凄みみたいなものを感じました。その荒唐無稽なところというか、なんでもありというか、激しく自由でロックなところが素晴らしい。

 昭和歌謡に出てくる歌詞の破壊力。もうお亡くなりになった桑名正博さんの「セクシャル・バイオレット・ナンバーワン」の衝撃。

 セクシャルなバイオレットがナンバーワンなんですよ。もう意味不明じゃないですか!と思っていたら、情熱の朱と哀愁の青を混ぜてバイオレットになっていたのでした。あー、それでセクシャルなバイオレットはナンバーワン!だったのですね。どこのランキングで何週連続なのかは存じませんが、セクシャルなバイオレットは私の中で間違いなくナンバーワンです。生前の桑名正博さんは、テレビのインタビューに答えてロック歌謡って言われるのが嫌だったとおっしゃっていたのを聞いたことがありますが、じんわりこみあげるソコじゃない感。いやいや、ロック歌謡でいいでしょう。問題はそこじゃないんだ!と私はテレビの前で思いました。

 でも、明らかに英語が間違っているものもありますね。おそらく昭和に限らず英語の歌詞は間違いがたくさんあると思います。母語じゃないからそれはそれでいいと私は個人的に思ってますけど。ヒロミさんの奥さんの松本伊代さんの「ラブミーテンダー」の teach me why? は、tell me why?の方がいいと思います。このレベルの間違いはナシだと思います。でも、もうそれぐらいどうだっていいんだ。昭和歌謡だから。

 アン・ルイスさんの In pleasure という曲も、私のハートはステレオタイプ 右のハートで云々かんぬん…って、stereotypeって、固定観念じゃないのかい。でも、もうどうでもいいのだ。昭和歌謡だから。アン・ルイスさんはカッコいいからいいんだ。歌うまいしね。今、テレビではお見かけしないけど。

 おそらく、その頃は曲を作って自ら歌うという文化もあまり根付いておらず、作詞家が歌詞を書くのが一般的だったというのも、昭和を感じさせます。しかも、これが「面白ければ、それでよし!」というスタンスでやってないできっと演ってる側も、聴いてる側も自然にそれを「いい曲だ」とすんなり受け入れていたというのも時代を感じさせます。確かにいい曲には違いないですが。

 「俺、昭和に生まれたかった」という高校生は何がよくて昭和に生まれたかったのかわかりませんが、そこはかとなく漂う昭和のバイオレットのナンバーワン感がツボなのでしょうかね。今日はなんだか、つまらん話であいすみません。

 

 

「語彙力格差」について考えてみる

語彙力は、母親の接し方で決まる?

 プレジデントオンラインというサイトに、ちょっと気になる記事を発見しました。 ざっくり内容を説明しますと、小学校に上がる頃にはすでに語彙力でトップと最下位の差が9歳ほどついているというもの。なんだか薄々感じてはいましたが、それほどまでに大きな差があるとは思っていませんでした。お時間のある方はぜひリンク先の記事を読んでみてください。この辺の差が、比較的早期に出始めてしまうなら、親の責任は重大であるとも言えますね。

 この記事によると、母親の子供への接し方で子どもの語彙力に差が出てくるというもの。しかし、母親ばかりに押し付けられることではないような気もします。お母様も最近共働きで忙しく、また社会全体が何でも省略、何でも時短。つかっている言葉自体が少なく短くなってきているように感じます。

 じつは子供と接するときに沢山話しかけて沢山聞かせるのがいいと思いがちですが、母親は聞き手としてなるべく短く、即座に、簡潔に、応答した方がいいということが書かれていました。なぜならば、子供の応答時間を与えるからです。「ほとんどの先生はしゃべり過ぎ」ですって。むむっ。それは、私のことでしょうか(笑)。それから、ゆっくり明瞭に発話すること。これが大事なんだそうです。確かに、小さな子どもにはとても有効だと思います。小さい子どもは、アウトプットの機会が多いほど、語彙力が育つということなのでしょう。

 さて、それに関して反論とまではいかないのですが、私はある程度こちらから働きかけるべきだと思います。インプットがなければ、当然アウトプットもないわけです。子供は大人の真似をするのが大好きですし、言葉は伝染します。また、子供たちは、子供ながらに大人の反応を見て、自分の説明が相手の興味を引くことであるのか、自分の楽しさが相手に伝わっているのかをうかがっているようにも見えます。

 その一方で、あまり何も話してくれないお子さんも中にはいらっしゃいます。しかし、もともとお喋りでなくてもこちらから話しかけると、いろんな反応が返ってきて、彼らの独特な世界観を垣間見ることができます。

 ところが、私が見てきた中で、もともと社交的でおしゃべりだけど、何を聞いても「知らない」「見たことがない」「初めて聞きました」という謎の文化圏にお住まいの方々がときどきいらっしゃるのですよ。「いやいや、それは聞いたことがあるでしょう」「大ブームだったでしょう」「最近ニュースになってましたが」ということも、彼らは「初めて聞きました」という。なかなかの強者です。

 しかし、話をしていく中で、一つ気づいたことがあります。「聞いたことがありません」と言ってすぐに会話が終わってしまう子どもでも即反応してしまう言葉があるのです。それは、テレビから繰り返し流れてくるCMのキャッチコピーや商品名です。彼らはテレビ番組の内容は忘れても、繰り返され垂れ流されるCMは脳裏に焼き付けているのです。彼らはこうして、何も考えずに買わされる側の人間になっていくのでしょうか。

 いろいろ考えたのですが、もともとある程度の語彙力が備わっていなければ、いろんなことを見聞きしているのに、まったく記憶に残らないのではないかと思うわけです。語彙を増やすにはその前段階の語彙なり知識が必要なのではないかと。だから「見たことも聞いたこともない」を繰り返す諸君のために、我々大人は、その前の段階の知識を確認し、説明しながら話をする必要があるのかも知れません。

 即座に、短く、明瞭に。

 

 

 

 

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ダメ人間によるダメ人間のための本のご紹介

『習慣の力』チャールズ・デュヒッグ/著

 本日は、ダメな習慣から抜け出せない私が自戒の意味も込めて、ここに名著『習慣の力』(原題;The Power of Habit)をご紹介する次第です。学習習慣をつけたいとお考えであれば、きっと心に響く箇所があるはず。月刊ぷらざ7月号でも少し触れていた内容です。そもそもこの本を読もうと思ったきっかけは、原文の抜粋が自治医科大学の過去の入試問題に使用されていたからです。生徒とああだこうだ言いながら読んだ思い出があります。「ああだ、こうだ」の具体的内容自体は失念してしまいましたが、いろいろはっとさせられる内容であったとその時は思いました。

 まず、冒頭から4年間で体重を30キロ絞り、大学の修士課程に入学し、家も買ったという女性の話が出てきます。いや、これは結構大変なチャレンジではないですか。その前に、その女性、ぽっちゃりを通り越してあきらかに肥満だったのです。子供1人分ぐらい減量したことになりますね。そしてその女性以外にも、国立衛生研究所に支援を受け、依存症、喫煙者、過食者などの患者を対象に追跡調査を行ったと書いてあります。彼らに共通することは、比較的短期間で生活の立て直しができたということなのです。なんだか、のっけから続きが知りたくなる内容ではないですか。そこで語られているのは、「キーストーン・ハビット」といって要になる習慣、例えばタバコをやめるという「一つの習慣に専念したことで、他の行動もプログラムしなおすことができた」という研究結果です。

 衝撃的だったのは、デューク大学の論文によると人の行動の4割が習慣によるものだということなのです。いきなり4割と言われてもぴんとこないかもしれませんね。たとえば朝から晩までの出来事を追って行くと、着る服を選んだりランチのメニューを選んだり、中には重大な決断を迫られることもあります。われわれは、「食べる・食べない」「運動する・しない」「テレビを視る・視ない」「勉強する・しない」「本を読む・読まない」という小さな決断をしながら行動していきます。最初は小さな決断も積み重ねられてそれが習慣化するのです。1、2回やった・やらないでは何の変化も感じられないかも知れないですが、積み重ねられ習慣化されたときに、その結果が大きく変わり生活自体が変わってくるのです。

 自治医科大学が英語の問題文として採用していた箇所は、「意志力こそが個人の成功に求められる、もっとも重要なキーストーン・ハビットである」というペンシルベニア大学が行った研究のくだりでした。そこでは、優秀な学業成績をおさめる学生は自制心が強く、IQでは学業成績を予測できないということが述べられています。「自制心は成績について、知能才能よりも大きな影響を与える」と。つまり、優秀な人は我慢強い傾向が見られたがIQの影響はより少なかったということです。うすうす気づいていたことではありますが、自制心はできる人の重要なファクターなのです。もう、堪え性のない私はお恥ずかしい限りです。

 結局、「習慣を変えるのは簡単ではないし単純でもない。しかし、習慣を変えることは可能で、その方法もわかっている」ということが述べられている本でした。「習慣を変えたいなら…」と、最後の方にまとめられていますが、具体的な方法とその事例こそが、この本の内容なのです。

 この本の著者は心理学者や精神科医ではなく、ニューヨークタイムズの記者なので、学術的な専門書としてではなく、一般向けにわかりやすく書かれていて非常に読みやすいものとなっています。できないのは才能ではなく、悪い習慣なのだと知れば、習慣を変えることでできるようになる可能性は十分あるのです。

 すべてのダメ人間に、学びと救いを与えてくれる良書。まぁ、これを読んだからって実行できるという保証はまるでないわけだけど。

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