やる気はどこから生まれるか?

勉強のやる気というのは、そう簡単にわくものではありません。
勉強しておけばよかった、という後悔は沢山わいてきますが。

そのような後悔の念を抱えて、
子育てをしている大人は、ご自身のお子さんに
「やる気を起こして勉強して欲しい!」と思われるでしょう。

しかし、実際に親の言うことを素直に聞いて勉強に励む子供はごく少数です。

この問題に対する解答は、凄まじい数が世に溢れています。
教育に携わる者にとって永遠のテーマですから、
それに対する自分の考えは表明したいものです。
(私もその一人です)

最近はこの問題に対して経済学が関わるようになりました。
流行りの「行動経済学」というやつです。

この学問の研究によって判明したことは沢山あります。
例えば、「成績が良ければお小遣いをあげる」という
家庭内制度は子供の成績を下げます。
なぜなら、子供にとってこの制度は
「お小遣いをもらわなければ、成績は悪くてよい」
という意味に変化していくからです。

ならどうすれば行動経済学的に正解なのか、
という話はここではしません。

というのも、別に行動経済学は完璧な学問ではありませんから。
(完璧な学問など存在しませんが)

もし仮に行動経済学が完璧なら、
それを駆使した大学の行動経済学の講義は
学生をやる気にさせ、素晴らしい学習機会になるはずです。
しかし、私は大学で行動経済学の講義を一回落としましたし、
次の年単位を取ることだけを念頭に置いて受講しました。

あくまで大多数に効果的なだけで、
必ず効果があるわけではないのです。

流行りの否定だけでは建設的ではないので、私自身の考えも述べます。

そもそも、動物というのはやる気がないものです。

肉食動物のライオンは、満腹で快適な状態なら動かずダラダラしています。
その様子は動物園で見ることができます。
餌があり安全が保証されているなら無駄にエネルギーは使いません。

サラブレッドの競走馬は、本能的にレースで全力疾走している訳ではありません。
本来、馬が全力疾走するのは外敵に襲われたときです。
それを人間が調教して全力疾走させているので、
現役の競走馬には凄まじいストレスがあるとされています。

人間も同じです。
今の人類になって1万年ほど、
勉強を始めたのはここ数百年からです。
本能的にダラダラしますし、無理に全力を出せばストレスになります。

ではどうするのか?
今、子供たちが勉強していることも原初は余暇で労苦ではありませんでした。

狩猟採集している人類が興味本位で種から植物を育ててみたり、
古代ギリシア人たちは農作業の傍らに星の位置をよく見てみたり、
偉大な科学者も通貨管理局に勤めながら科学を探求してきました。

これらは今は教科書に書かれていることですが、
探求した人間がいるから教科書に載っています。

今いる子供たちにとっても最初から勉強は労苦ではなかったはずです。
小学一年生から勉強が嫌いでやりたくないと言う子はいないです。
なぜなら、最初は簡単なことからやるため理解できるので興味を持てました。

それが段々理解できなくなると、興味がそがれていきます。
「できた!」という喜びはあまり変わらないのに、
子どもからしたら労力は増えていく一方です。

社会人なら誰しも経験しますが、最初の頃の給料は嬉しかったはずです。
しかし、仮に量も責任も年々増えていくのに、給料一定の会社に勤めますか?
たとえ勤めていてもやる気は起きないし、手を抜くでしょう。

子どもにとっての勉強も同じことが言えます。
大人にとっての労働給料の関係は、
子どもにとっては勉強理解です。

出来て嬉しい、分かって嬉しいという報酬なしに
勉強のやる気は起きません。

つまり、いかに勉強させるかよりも
どれだけ分かる喜びを提供できるかが重要になります

その為には褒めることや簡単な問題を出すことが有効です。
いきなり完璧な形で解答できることを期待してはいけません。
答えを見ながら、教科書を見ながらの学習でもいいのです。

理解や到達点を見えやすくしてあげる。
その為に正解を見せてもいいのです。

やらない理想の勉強よりも、楽でもやる勉強。
実現できない理想は毒になりかねません。

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